イッセイ ミヤケ:ISSEY MIYAKE
ブランドの始まり
1970年に三宅一生が「三宅デザイン事務所」を設立、71年、ブランド「ISSEY MIYAKE(イッセイ ミヤケ)」としてニューヨークにてコレクションを発表。
イッセイ ミヤケについて
三宅一生(Issey Miyake)は1938年生まれ。多摩美術大学図案科在学中の60年、三宅は、日本ではじめての世界デザイン会議開催に際し、「衣服デザインが含まれていないのはなぜか」と投書。
衣服をファッションではなく、デザインとして捉える視点に注目が集まる。大学卒業後、第1回コレクション「布と石の詩」を発表。
その後、フランス、パリに渡り、シャンブル・サンディカル・ド・ラ・クチュール・パリジェンヌに入学。その後、ギ ラロッシュ、ジバンシーのメゾンに入る。
68年、パリ5月革命に遭遇したことが大きな契機となり、一般の人々のための服づくりを志す。69年、ニューヨークへ渡り、ジェフリー ビーンのもとで経験を積む。パリではエレガントな技巧、ニューヨークでは機能と実用性を重視する服作りを学ぶ。
東京に戻り、70年に「三宅デザイン事務所」を設立。1971S/Sシーズン、「ISSEY MIYAKE」としてニューヨークにてコレクションを発表。73年からは、パリにてプレタポルテ・コレクションを発表。
70年代、日本はもちろん、世界の伝統的な技術を受け継ぐ職人のもとを訪れ、失われつつある糸、染め、織りなどの技術を研究、モダンなデザインとして蘇らせる協働制作プロセスを確立した。
三宅の服づくりは、創業当初から現在に至るまで「一枚の布」という考え方に貫かれているが、この考えのもと、一本の糸から、オリジナルで素材を開発しながら、身体と、それをおおう布、その間に生まれる「ゆとり」や「間(ま)」の関係を追求している。
80年代、身体のフォルムと動きの研究を続ける中で、プラスチック、籘、紙など、布以外の素材を用いた服づくりに挑戦。83年には「ボディワークス展」を開催した。これについて三宅は、CBSのインタヴューで「人々がこれまでとは異なる視点で"ボディ"について考えはじめた時期でした」と語っている。
88年よりプリーツへの取り組みをスタート。93年、「PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE(プリーツ プリーズ イッセイ ミヤケ」をスタート。このブランドでは裁断・縫製後にプリーツをかける「製品プリーツ」手法を用い、機能・汎用性・美しさをかね揃えた服を展開。これまで約400万枚が世界中で愛用されている。
98年、藤原大(Dai Fujiwara)と共にデジタル・テクノロジーを用いて「A-POC =A Piece Of Cloth(エイポック)」の開発をスタート。一本の糸、一枚の布が服になるまでの革新的なプロセスを確立した。
2000S/Sシーズンのコレクションより「ISSEY MIYAKE」ブランドをデザイナー滝沢直己(Naoki Takizawa,ナオキ タキザワ)が引継ぐ。
2004年、財団法人三宅一生デザイン文化財団を設立。アーカイブ作りやデザイン文化交流、若手の作家・アーティストなどを中心とした人材育成に尽力している。
2007S/Sを最後に滝沢直己がISSEY MIYAKEブランドでのデザイナーを退任。2007A/Wコレクションより藤原大がISSEY MIYAKEブランドのクリエイテブディレクターに就任し「A-POC INSIDE」を掲げて引継ぐ。
2011年、ウィメンズの新デザイナーに宮前義之を起用。2012S/Sコレクションから新体制で臨む。また、メンズに関しては、ブランド名を「ISSEY MIYAKE MEN」と改名。
現在、ISSEY MIYAKE INC.にて「ISSEY MIYAKE (women/men)」「PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE」「HaaT」「me ISSEY MIYAKE」の5ブランドを展開。
グループ会社のA-net Inc.では「Plantation(プランテーション)」「sunaokuwahara(スナオクワハラ)」「TSUMORI CHISATO(ツモリチサト)」「、ZUCCa(ズッカ)」「FINAL HOME(ファイナルホーム)」「Ne-net(ネ ネット)」「mercibeaucoup,(メルシーボークー,)」の7ブランドを展開している。
2011-07-14 21:42
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